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4/8の講義 Kさんからのメッセージ (★NEW 4/13返答)

2020/04/08

  • 問答

新型コロナウイルス感染防止のため、本日(8日)の講義は中止にしました。
Kさんは、40代半ばかな?今から13年前くらいにお寺まで、手紙を届けて下さいました。
今回の私の四つの問いにも、「いつも話している問いですね」と言われました。
ここで多くを語ろうとは思いませんが、「弥陀成仏」っておかしな言葉だと思いませんか?
阿弥陀仏は仏だから、成仏していない訳はないのに、「弥陀成仏」という言葉を使われた。
「大無量寿経」で、阿弥陀仏の前身である法蔵比丘が、衆生救済のために四十八願の建立、
兆載永劫の修行をされた物語がベースになっています。
釈尊の教えを聞いていた阿難が初めて「法蔵菩薩成仏してますか」と尋ねられたわけです。
その釈尊の答えが、「法蔵菩薩は成仏して、十劫の時を経ている」でした。
ということは、この法蔵菩薩こそが阿弥陀仏と同異義語であるといただけます。
まだ仏に出遇ってない方は、極力「法蔵菩薩」という言葉を使わない方がいいと思います。
まずは法蔵比丘(びく)というお言葉を大切にしてほしいです。
早く皆さん一人一人が、法蔵比丘を阿弥陀仏に成仏させてあげてほしいと思います。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり (歎異抄 後序)
★<弥陀=法蔵菩薩>

                                             Kさんのメッセージ
1、 法蔵比丘は四十八願を立て、兆載永劫の修行を行っている最中の姿。衆生のために代わりに修行をして下さっている慈悲の象徴。(往相回向)
法蔵菩薩は、阿弥陀仏(無上仏)が衆生済度のため、一度国王になり、法蔵比丘になり、修行をして四十八願を完成し、晴れて元の姿阿弥陀仏に成仏し、完成した智慧と慈悲の当体である「南無阿弥陀仏」を衆生に回施する姿。(還相回向)一生補処で、成仏が確定している法蔵菩薩は、衆生済度のため兆載永劫の修行に入り、必ず阿弥陀仏に成仏する。その法蔵菩薩の成仏こそが一切衆生が間違いなく浄土に往生できることの証明になる。

2、 法蔵比丘は「十方の衆生の中で一人でも浄土に往生できないならば、自分は成仏できない」という誓願を立てられた。その一切衆生の中の私が正定聚に住していないならば、法蔵比丘は成仏できないことになる。しかし釈尊が「法蔵菩薩は成仏して阿弥陀仏になり、それから十劫が経過している。」とおっしゃっていることから、法蔵比丘は間違いなく成仏しており、我々衆生の浄土往生も確定していることになる。

3、 仏法の無量・無限は我々の思議をはるかに超えており、とても認識することはできない。これがわかれば最早、智慧は仏陀の域に達している。それは自力で成仏できる人である。ただ、無量・無辺・無碍・無限のブラックボックスの中から、阿弥陀如来は衆生が受持・保持・口称しやすいように方便法身「南無阿弥陀仏」を作られた。南無阿弥陀仏には仏の無量・無限のはたらきが込められている。

4、 「南無阿弥陀仏」は私が死んでもなくならない。念仏を一生の間、受持・称名することによって、阿弥陀仏の無量寿に触れることができる      (Kさんのメッセージ 終わり)

 

   ★「一念一生」★  一念の中に臨終も含めた一生が含まれている  (瀧 義範)   <R2.4/8>

 

①法蔵比丘と法蔵菩薩の違いを考えましょう。同じでしょうか?  (瀧 義範)

『大無量寿経』の中の物語で、一人の国王が世自在王仏に出遇い、出家して法蔵比丘(出家者)となりました。その法蔵比丘が衆生救済のために四十八願の建立、さらに兆載永劫の修行をして阿弥陀仏に成ろうとされました。
聴衆者の阿難が初めて「法蔵菩薩は成仏してますか?」と尋ねました。
釈尊は「法蔵菩薩は成仏して十劫の月日が経っている」と説明されました。
このエピソードが「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫へたまえり」と、
『大経和讃』に記されています。ですから、弥陀成仏は法蔵菩薩成仏、つまり阿弥陀仏と法蔵菩薩は同じ意味があると読めます。法蔵比丘は、まだ成仏してない修行中の比丘です。区別して、大切に読むべきだと思います。 想像力を働かせてみて下さい。阿難は、「大経」は元々無上仏(形を超えた阿弥陀仏)が、姿を現して出現した物語であると気づき、還相(浄土から娑婆に還ってきた姿)の菩薩こそが法蔵菩薩であると発見されたのです。
単なる物語と考えてもいけません。村上春樹も小説の中で、ひとつの物語ということの完成をテーマにされています。人間は根源的な物語を求めていると思います。

②あなたは、法蔵比丘を成仏させて、阿弥陀仏にしてますか?     (瀧 義範)

阿難は、法蔵比丘は阿弥陀仏に成仏されている確信を持たれたから、初めて「法蔵菩薩」という言葉を使われました。あなたこそ、阿弥陀仏に本当に出遇っているのか?が問われて来るのです。「摂取して捨てざれば、阿弥陀となづけたてまつる」おさめ取って捨てない阿弥陀仏のはたらきを感じてなくては、阿弥陀仏と名づけることはできません。仏に出遇ってない私は、恐れ多くて「法蔵菩薩」という言葉は使えないと自重すべきだと考えます。
最後に、法蔵菩薩という言葉を広められた曽我量深先生に対して、先生亡き三年後、
金子先生が苦言を述べられています。
曽我先生が「我は我なり。如来は我なり。されど、我は如来にあらず」と、有名な言葉を大学の講堂で話された。そのときある人が「曽我君、君は法蔵菩薩は我だ、というようなことを言うが、あんなことを言うていいのか」と言うた。そうしたら曽我先生は「言うて善いか悪いか知らんけれども、法蔵菩薩さまが法蔵菩薩は我なり、と言うていらっしゃる。曽我が言うんなら悪いけれどもなあ」というようなことを言うておられた。結局、「我」と「仏」というところに南無阿弥陀仏があるのでしょうが、私としてはそうではない。そこにもう一つ「我らの道」ということがある。(「聞光」第十号 昭和49年)
つまり、最晩年差別発言をされた曽我先生に対して、法蔵菩薩を我と認識する我があることを、苦言されていると考えるべきでしょう。「我も如来もなし」の世界に触れてこそ、我も超えた、無上仏なる無我の世界に突入できる、法機一体(「光輪鈔」金子著)といただくべきです。
阿弥陀仏=法蔵菩薩と、仏(如来)に出遇っているか、否か、自分の立ち位置を見極めて、丁寧に法蔵菩薩というお言葉を使っていただきたいと願います。(R2.4/13)

③④の問いに関しては、また慶栄寺法話会で話し合いましょう。お待ちしています。

 

 

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